今年2022年の3月4日(金)にPlayStation®2(PS2®)が発売22周年を迎えました。グラフィクスの美しさがゲームの表現の幅を広げ、前世代機である初代PlayStation®のゲームもプレイできることから話題を集めたPS2。さらにゲームだけでなくDVD再生プレイヤーとしても使うことができたため、幅広い層からから支持を得たハードウェアでもありました。

当時PS2がいかに世間の注目を集めたかは、全世界累計販売台数がプレイステーション史上最大(2013年末時点)の1億5500万台以上であることからもうかがい知ることができます。そんな、最もユーザーから期待されたゲーム機であるPS2は、どのように開発されたのでしょうか? PS2の開発に携ったソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)の豊 禎治、鳳 康宏の二人が当時の出来事や想いを語ります。

――お二人はどういった立場でPS2に関わったのでしょうか?

 私は1988年に厚木にある当時ソニー(株)の情報処理研究所に新卒で入所しました。当時の上司が「PlayStation®の父」と呼ばれる久夛良木 健さんで、その下で初代PlayStationの開発に関わり、PS2では初代PlayStationとの互換機能を担当しました。

 私は1998年の7月、28才のときに他社からメカエンジニアとして当時のソニー・コンピュータエンタテインメント(現SIE)に転職してきました。当時はちょうどPS2の開発が始まる時期でしたが、PS2本体のメカ設計担当は3人しかおらず、いきなり基本レイアウトの設計を任されました。
本体のサイズや基本構造をどうするか、どうやって冷却するか、どのように組み立てるかなどをデザイナーや電気エンジニアや部品メーカーの方などいろいろな人と協議し、深夜までCADとにらめっこして考え、試作と実験を繰り返す、怒涛のような毎日でした。

――PS2は空前の大ヒットになりましたが、何を目指して開発したのでしょうか?

 初代PlayStationは世界で初めてリアルタイム3Dコンピュータグラフィクス(3DCG)を家庭用ゲーム機に持ち込みましたが、グラフィックスは粗くまだまだ進化の余地があったのです。高性能なグラフィックスを実現させるためにPS2ではグラフィックスシンセサイザー(GS)と命名したGPUを独自開発し、チップ内にグラフィックスメモリを載せました。
その甲斐あって、PS2は、グラフィックスのクオリティが格段にアップしました。TV画面が4:3のVGA解像度(*1)の時代でストレスなく楽しめる画質になったことから、3DCGのゲームが多くの人に受け入れられ大ヒットにつながったのだと思います。

(*1) 「Video Graphics Array」の略。代表的な表示モードが640×480Pixelとなる。

 しかし、初代PlayStationが大成功を納めた後で、世間では「次世代機で続けての成功はないだろう」という見方がされていたように記憶しています。そんな予想を吹っ飛ばして、凄いモノを作ろう!という雰囲気が社内に溢れていました。
私自身もSCEに転職するときに「ゲーム機なんてもう頭打ちのビジネスだよ?大丈夫?」などと言われたりしていたので、見返してやりたいという想いもありましたね。

――PS2にはDVDの再生機能も搭載されましたね。

 当時大ヒットした映画『マトリックス』のDVDとPS2の発売日が同時期に設定され、PS2はゲーム業界だけでなく映画業界からも期待される重要なプロダクトだったことが印象に残っています。

超高速 Video RAM、熱設計、初代PSとの互換性――PS2には革新性が詰まっていた

――PS2というハードウェアを振り返ってみて、革新的だったと思う部分はどこでしょうか?

 私は先にも述べたGPUのGSだと思います。GSはチップ内に、Video RAM(*2)を搭載し、およそ5千本もの配線をメモリアクセスに割り当て、超高速でアクセスできるようにしました。ただVideo RAMをチップ内に入れるというのはとても難易度が高いのです。今は当時よりも必要なビデオメモリが格段に大きいという理由もありますが、現代のGPUもチップ内にビデオメモリを入れることはしませんから。

(*2) 画面に表示される内容を保持するためのメモリー。グラフィックスメモリまたはビデオメモリとも呼ばれる。

――GSとVideo RAMが超高速でアクセスできることで、どのような成果があったのでしょうか?

 描画性能、特にピクセルフィルレート(*3)は1フレームを描画するときに全画面を100回以上も重ね書きできるようになりました。非常に画期的な性能であり、その描画性能によって高品位な画像を実現できるようになったのです。

(*3)1秒間に描画できるピクセル数のこと

――PS2はさまざまなチャレンジが詰まったハードウェアですが、どのようなハードルがありましたか?

 本体の発熱量が80Wというのは、当時としては驚きの高い数値でした。「筐体の中に半田ゴテが1本入っているようなものだ」と言っていたのを覚えています。今でこそ200Wや300Wの冷却機構を作っているので80Wなんてかわいいもんですが、当時の私は熱設計の専門ではありませんでしたし、設計者の人数も限られていたため構造設計から冷却設計まで全部をやらねばならず、「どうやって冷やすんだこれ?」と途方にくれましたね。
また、ファンとヒートパイプ付きのヒートシンクを搭載しなければ絶対に冷えないことは物理法則から明らかだったのですが、当然コストや生産性にも関わってくるので、それを各所に認めてもらうのにも苦労しました。当時、ファンを搭載したコンシューマー機器はあまりなく、熱設計に関する周囲の理解もほとんどなかったため、「技術力が無いからそんなものが必要になるんだ」「どうしても付けるなら羽根のない、全く音のしないファンを開発しろ」という無茶な要求も出てきたりしましたが、資料やデータを整理し、分かりやすく表現することで、なんとか理解を得られました。

 私は担当していた初代PlayStationとの互換機能の開発ですね。当時、新しいゲーム機で前のゲーム機のゲームタイトルを遊ぶことはできないというのが常識でした。ゲームコンソールでの互換機能は前例がなく、果たして実現できるかどうかもわからないなか、できると信じて手探りで必死にやったことが記憶に残っています。
まず大きな問題は、初代PlayStationとPS2のCPUに互換性はなく、初代のプログラムをPS2で動かせないことでした。そこで初代のCPUをPS2に搭載できないか。できたとして、互換性を保つこと以外にも機能する方法はないのかを皆で知恵を出し合いました。 初代に比べPS2の動作周波数は格段に高速化されています。メインCPUが動作の遅いDVDやサウンドなどの周辺デバイスに作用することは、初代PlayStationのときには問題なかったのですが、高速なPS2のCPUにとっては非効率になってしまうのです。そこで「初代PlayStationのCPUをI/Oプロセッサ(*4)として周辺デバイスの面倒を見るようにしよう。そして初代のゲームを遊ぶときにはメインプロセッサに主従逆転させて初代のCPUを起動させよう」というアイデアが当時DVDドライブを担当していた技術者から発案されました。この構成により後方互換性が実現したのです。

(*4) 外部からデータや信号を入力したり、外部に出力したりするための回路や装置などのこと。

高い目標設定、フットワークの軽さとチームワークが成功のカギ

――発売日には各家電店・ゲームショップの店頭で大行列ができました。当日はどんな気持ちでそれをご覧になったのでしょうか。

 発売日に家電量販店に行列を見に行きました。自分の設計したものがこれだけ注目されるという現象がちょっと信じられなくて、あまり実感がわかず夢のような気分でしたね。

 PS2の発売は主要ニュースでも取り上げられ、大行列の様子もTVのニュースを見ましたが、これだけ評判になってとてもうれしい気持ちでした。自分が関わったゲーム機のローンチを見るのはPS2で3回目でしたが、店頭での熱気が一番伝わってきたプロダクトでしたね。

――PS2成功の原動力はどこにあったと思いますか?

 たとえば互換機能の実現に至るまでには、膨大なゲームタイトルをチェックしては問題を一つ一つ潰していくという気の遠くなるような作業がありました。初代PlayStationのタイトル1本1本の動作を検証し、動かないものがあれば原因を明らかにしていったのです。中にはゲームソフトウェア側の不具合もあり、解決にはソフトウェアメーカーに協力をお願いしなければならなったのですが、当時は互換性に関する情報を公開してなかったので詳細を伝えることができないジレンマもありました。しかし品質管理チームが膨大な労力を割いて協力してくれたおかげで、一部を除きほぼ全てのタイトルに互換機能を対応させることができました。そのうえ高品位なテクスチャーマッピング(*5)や高速読込といった新機能が加わることにもなりました。
PS2成功の原動力は、まず、久夛良木さんの常識にとらわれないゴール設定。そして、それはユーザーに望まれている機能なのだということを開発スタッフ皆が信じて懸命に努力するカルチャーがあったからこそですね。

(*5)3次元コンピュータグラフィックス(3DCG)における、物体としての質感を表現する手法のこと。

 当時は開発スタッフの人数が限られており、それが大変ではありましたが、裏を返せばフットワークが軽く、物事がスピーディに動かせるという利点もありました。現在では、開発チームは当時よりも拡大されましたが、それでもまだ少ない方だと思います。メカ屋・電気屋・ソフト屋がすぐ近くに座っていて、短時間で方向性を定め、それに向かって一丸となって進んでいくカルチャーは、現在も続いていると思います。

――最後に、PS2開発時から常に心掛けていることを教えてください。

 私は2つあって、まずは「基本に忠実に、原理原則を外さない設計」です。「独創的」とか「画期的」というものに私はあまり興味がありません。それらは全て、ていねいに基礎を積み上げていった結果だと考えています。PlayStation®5ではコンシューマー機器として初めて液体金属を採用しましたが、これも決して奇抜なアイデアではなく、性能・コスト・生産性のトータルで最も優れたもの、最もシンプルでやりやすいものを採用しているだけなのです。
もう一つは「技術のみを追求すれば自ずと機能美を実現できる」ということです。私はとにかく美しい、格好良いマシンを作りたいのですが、その手段はあくまでも「技術の追求」だと考えます。「速いマシンは美しい」と言いますが、「美しいマシンは速い」とは言われません。これは私のライフワークでもあります。会社ではPlayStationをつくり、自宅でもいろいろなものを作っていますが、未だに納得できるものは作れていません。まだまだ精進が必要ですね。

 私がPlayStationの開発を通じて肝に銘じていることは「目線を高く持つ」ということです。担当をした互換機能も、誰も実現できていないし、CPUの互換性もない状況では無理だと思うのが普通です。しかし、これまでPlayStationを楽しんでこられたユーザーのことを考えれば、実現すべきです。その高い目線を忘れないこと。それを肝に銘じています。

2022年3月31日に一部内容を更新